「仕事始め」と「正月」(大正月・小正月・立春)の考え方

「仕事始め」と「正月」(大正月・小正月・立春)の考え方

「仕事始め」とは?

 そもそも「仕事始め」とは、新年を迎えて最初の仕事や、新年の仕事の開始に先立って儀礼的に仕事を行なうことを指します。ですが、一言に「仕事」といっても内容は多種多様です。

 諸官庁では「御用(ごよう)始め」と呼ばれ、正月四日に新年始めての事務を執ることをいい、戦前、宮中では「政始(まつりごとのはじめ)の儀」が行なわれました。この政始の儀は、平安時代には宮中の公事として正月九日に行なわれ、明治三年から正月四日に行なわれるようになり、戦後は廃止されました。鎌倉幕府の問注所では正月十日、室町幕府では正月七日に執行されました。

 このほか、仕事始めとして、田打ち初め、初山(はつやま)入り、舟祝(ふねいわ)い、初売(はつうり)、初荷(はつに)、出初(でぞ)め〔一月六日前後〕、などがあり、一月二日・四日・十一日などに行なわれました。

 このように、「仕事始め」といっても時代や仕事の内容、地域などによっても、実施する時期に広がりがございます。

複数の「正月」の存在

 一言に「正月」といっても、実は複数の正月が存在しています。

(1)小正月と大正月

 かつては、月の満ち欠けを基準とする旧暦にもとづいて、望(もち)の正月、つまりその年の初めての満月の日(旧暦の正月十五日)を正月と考える習慣があり、これが現在の小正月(こしょうがつ、一月十五日)にあたります。その後、明治時代に新暦が採用されると、朔旦(さくたん)つまり一月一日を正月とする習慣が民間に広がり、旧来の小正月と大正月(おおしょうがつ)が併存するようになったといいます。民俗学では、この望の正月(小正月)を朔旦正月(大正月)よりも古い形であると考えています。

 現在でも、小正月には餅花・繭玉、削り掛けなどを作ったり、成木責め、鳥追いなどの行事を行なったりして、その年の農作物の豊穣を祈る予祝(よしゅく)儀礼が行なわれています。また、左義長(さぎちょう)や道祖神祭など一年の無病息災を祈る行事も行なわれています。

(2)立春と節分

 他方、月の満ち欠けに基づく旧暦は、太陽の運行にもとづかず、季節の変化を反映しなかったため、これを補うべく太陽の黄経(こうけい)を二十四等分し、それと季節を対応させた二十四節気(にじゅうしせっき)がございます。二十四節気には、夏至と冬至の二至、春分と秋分の二分、立春・立夏・立秋・立冬の四立、などがございます。本来、四季を分ける日である立春・立夏・立秋・立冬の前日を「節分」と呼びましたが、立春の前日の節分は二十四節気の起点、つまり年の初めであることから重視され、やがてこの日だけがとくに「節分」といわれ行事がなされるようになりました。現行暦(太陽暦)では二月三日または四日が節分となります。

 現行暦では、正月は原理的には冬至正月と考えられ、立春は二月に訪れますが、旧暦では立春正月、つまり立春は年頭または年の暮れの時期にあたりました。旧暦においては大晦日・元旦と節分・立春が近接していました。

節分と大晦日

 節分には、追儺(ついな)や豆まき(豆打ち)などの行事が行なわれます。追儺は、祭文(さいもん)を奏して鬼に扮した人を桃の弓や矢、棒などで追って悪疫邪気を退けようとするもので、「おにやらい」などとも呼ばれ、本来は大晦日に行なわれました。豆まきは炒った大豆を打って鬼を払うもので、室町時代に始まったとされます。大晦日の追儺と節分の豆まきはもと朝廷などでは区別されていましたが、民間では両者を区別しないところが少なくありません。

新年と無病息災の祈願・悪疫邪気の退散

 このように、正月には、大正月(一月一日)のほかに、小正月(一月十五日)、立春(二月四日頃)などを「正月」と考える見方がございます。小正月には、農作物の豊穣や無病息災を祈る儀礼が実施され、節分には悪疫邪気を退ける行事などが各地で行なわれています。

 農作物の豊穣は、商売の繁昌にもつながると考えられ、小正月や立春頃には無病息災の祈願や悪疫邪気の退散につながる儀礼が行なわれていることから、この時期の参拝はそうした祈願につながると捉えることも可能です。

 また、二月八日を「事始」とする風習もございます。

主要参考文献

田中宣一・宮田登『三省堂年中行事事典〈改訂版〉』三省堂、平成二十四年
加藤友康・高埜利彦・長沢利明・山田邦明編『年中行事大辞典』吉川弘文館、平成二十一年
國學院大學日本文化研究所編『縮刷版神道事典』弘文堂、平成十一年
川口謙二・池田孝・池田政弘『改訂新版 年中行事・儀礼事典』東京美術、平成九年〔改訂新版第一刷〕
半澤敏郎『生活文化歳時史』第Ⅰ巻、東京書籍、平成二年