「庖丁儀式」は日本王朝時代の厳粛な儀式であり、古典文化生活の一表情であります。
四條流の名は平安時代の初期、五十八代光孝天皇が料理に趣味をお持ちになり御みずから庖丁を執られまして、数々の宮中行事を再興されました。
通常、毎年1月中旬の日曜日に神社境内にて行われます。
四條流庖丁儀式について
「四條流庖丁書」には、四條中納言藤原朝臣山陰卿が鯉を庖丁したことから、庖丁の儀式の切形がはじまったと記録されています。
また「源氏物語」の「常夏巻」には「いと暑き日、ひんがしの釣殿に出給ひて、すずみ給ふ、中将の君もさふらひ給ふ、したしき殿上人あまた候ひてにし川(桂川のこと)より奉れる鮎、ちかき川のいぶしやうの物、おまへにて、調じてまいらす」云々と書いてあります。
また「宇治拾遺物語」では、記茂経が「さて狙板、洗ひて持て参れ」と声高いひて、やがて茂経今日の庖丁仕らんといひて、真魚箸けづり鞘なる庖丁抜いて云々と記されてあります。
このように「庖丁式」は、まことに古い時代から行なわれたものでありまして、幾多の文献を見ましても、そのはじめは殿上人(公卿)や、大名が賓客を我が家に招いた場合にその家の主人が心から歓待する意味で、まず、主人みずから庖丁をとって、庖丁ぶりを見せてその切った材料を、お抱えの御膳部の料理人に調理させて、ふたたびその賓客のお膳に供して、御馳走したものであります。
従って「庖丁式」というものは、厳粛の儀式であるとともに、あの平和な大宮人の風流優雅な気分と生活の一端を表現した社交儀式とも言えましょう。
「鶴の御膳庖丁式」について
ことに「鶴の御膳庖丁式」というものは、伊勢貞丈の随筆「纐纈の巻」にも記されてあるように、正月二十八日、禁中(宮中)の清涼殿で行なわれたもので、天皇の御膳でなければ許されないおごそかな庖丁儀式とされておりました。
この「鶴の庖丁式」の切り形にも「式鶴」「真千年」「草千年」「舞鶴」「鷹鶴」というような名称の切り型があります。
「鯉の庖丁式」の切形は四十種以上もあって、それぞれその名前も異なっています。
たとえば「竜門の鯉」とか「長久の鯉」とか「神前の鯉」「馬場の鯉」「出陣の鯉」「梅見の鯉」「二唯の鯉」等々がありまして、その宴にふさわしい意味での庖丁式がとり行われるのであります。
また、鯉のほかには、鯛、真鰹、鱸、鮒、鮭、鯒、鯰などの魚類をはじめ、雁、鴨、雉、鵠などの鳥類もその材料に用いられます。雁を例にすると、「式雁」「真雁」「初雁」「帰雁」「落雁」「雁やつし」等の切型と名称があります。
「四條流」について
かように、「庖丁式」は日本古来からの優雅な王朝文化財でありますが、戦国時代や、世の時代のうつりかわりに、この儀式の盛衰もありましたが、幸いにも「四條流」は時代の篩にかけられて滅びることなく、徳川中期からこの庖丁式の切型が石井家に伝承されました。
明治になってからは、故・四條流宗家9代・石井泰次郎翁が唯一の伝承者であります。
日本料理の最高権威である故・山下茂氏は、この石井翁に師事して「庖丁式」の奥儀をきわめ切磋琢磨すること、実に30余年の長き歳月に及びました。
昭和45年、12代家元・山下氏の「包丁式」は、先々代・幸四郎丈の名技18番「勧進帳」の弁慶のごとく有名であり一種の「名物」とされていました。
「包丁式」の伝承指南
近来、この「包丁式」の伝承の重要性がとみにみとめられて、生前山下氏に教えを乞う門人も日本全国に数多く、日夜研鑽していることは、わが日本の無形文化財たる「包丁式」を永く後世に伝える意味からしても「四條流包丁式」の伝承は現在数多くの師範及び門人においても継承されており、日本料理のために悦ばしいことであります。
又師範たちは料理礼法剥物ともに伝承指南をしております。
伊勢神宮の第61回式年遷宮での奉仕をはじめ、神田明神はもちろんのこと、埼玉県・秩父神社、長崎県・諏訪神社、東京都・坂東報恩寺においても「包丁式」をとり行っております。
十二世家元山下茂・柏亭直門、四條流十六代家元 入 口 柏 修
商標権登録 4190885 2467252 1873172