江戸幕府3代将軍 徳川家光の側近にして江戸幕府5代将軍 徳川綱吉の生母「桂昌院(けいしょういん)」や、その時代の元禄文化の資料を展示する『桂昌院と元禄文化』が神田明神資料館にて6月22日(土)から8月11日(日)まで開催!
桂昌院は、江戸時代、八百屋の娘として生まれ、様々な経験をし、大奥の最高位へ昇り詰めた人物であり、神田祭とすごく深いご縁がある方です。
当時の神田祭は、江戸城内にもねり歩き行列が入って将軍様もご覧になるお祭りで、元禄元年に桂昌院もご覧になっているんです。また、実子の徳川綱吉は神田に住んでおり神田明神の氏子だったと推定できます。さらに、桂昌院は神仏に関して信仰が厚く寺社仏閣への寄進やお祭りの復興、支援を数多く行なっています。
本展では、桂昌院の生涯を描く、日本一のシンデレラストーリー漫画『めでたく候』(集英社)の作者「藤村真理」さんの書き下ろし作品や関連作品が展示されます。
開催に先立ち、藤村真理さんと漫画『めでたく候』の監修をしている群馬県高崎市「大聖護国寺」54代住職、飯塚秀誉(しゅうよ)さん(以下、飯塚住職)にお話を伺いました。
- 記者
- ー桂昌院さんの生涯を描くことになったきっかけを教えてください
- 飯塚住職
- 大聖護国寺と桂昌院様との関係は、24代住職、亮賢僧正が安産祈願をしたのがはじまりで、その祈願によって生まれたのが綱吉公といわれています。そのこともあり桂昌院様から多くの仏像や宝物、御堂が寄進されているんですが、大聖護国寺のほかにも各地の寺社仏閣へ寄進や支援されているんです。
桂昌院様は、悪役で描かれるなどあまり良いイメージで語られていないんですが、昨今、生類憐れみの令が再評価されることもあり、今まで語られていなかった違う面を知って欲しいという思いで、“桂昌院様を伝えよう” みたいな動きになったのがきっかけです。
- 飯塚住職
- 桂昌院様を知っていただくのにどのような方法があるか僧侶仲間と話していて、年齢とか性別とか関係なく入りやすい方法のひとつに “漫画” で伝えるのはどうだろうと思ったんです。ちょうどその時、うちの妻の関係の集まりで藤村真理さんにお会いでき「今、漫画家さんを探しているんですけれど」とお話しさせていただいたんです。
- 藤村真理先生
- 時代劇は好きなんですけれど、徳川歴代将軍もほとんど知らなかったですし、本当に何も知らなかったので、その時は「少し考えさせてください」とお返事したと思います。でも、面白そうなだと思ったので改めてお話を伺いましたね。
- 記者
- ー“死後の世界から自らを振り返る”っていう発想は面白いなと思いました。この設定はおふたりで考えられたのですか
- 藤村真理先生
- 一般的な少女漫画だとなかなか死後の世界って描かなので、いつか描いてみたいなって思っていたところなんです。ずっとあたためていたアイデアで、お話を伺ってから“これ今じゃん!”て思ったんですよね。
実はこの設定って、知り合いの女性から聞いた話を元に発想したものなんです。その女性は、“私は大体3000年余り生きている”とか“私が話しているのではなく降りてきていることを私が話しているだけ”と話をされる方で、おもしろいなと思って話を聞くのが大好きだったんです。
- 藤村真理先生
- その女性が言うには「死んだらみんなの前で上映会が始まるのよ。隠していたことがあってもみんなに見られちゃうんだよ!」って話をしたことがあったんです。「それってすごく恥ずかしいし、怖ーい(笑)」って思いましたね。そういう世界観は面白いなと思っていたので、今回描けて嬉しかったです!
- 記者
- ー桂昌院さんは神仏に関して信仰が厚かったようですね
- 飯塚住職
- 関東、関西と数多くの寺社仏閣へ寄進したり、社殿を建てたりと支援していたようです。
関東ですと大聖護国寺、護国寺、祐天寺、増上寺、五百羅漢寺、洲崎弁財天社、小石川白山神社、柳森神社、蔵前神社など、関西ですと真正極楽寺、智積院、神護寺、善峯寺、今宮神社、室生寺、長谷寺、法隆寺、石清水、東大寺、春日大社、新薬師寺、伊勢神宮など、挙げだしたらキリがないほどかなり神仏というものに思い入れがあったと思います。
- 飯塚住職
- 京都の今宮神社のお祭りを復興していますね。伽藍などの整備も行っているようで、桂昌院様とのつながりは深いようです。
- 藤村真理先生
- いやぁすごい! 神仏に対する信仰も厚いけれど、徳川家繁栄のためにも行動していたように思えますね。
- 飯塚住職
- 諸説ありますが、桂昌院様は京都の西陣の生まれだと言われています。今宮神社のすぐ近くで幼少期を過ごしたと言われているので、境内で遊んだり、当時すでにあったあぶり餅を食べたりしていたんじゃないかと思いますね。あと、西山 善峯寺でも過ごしたという話があります。幼少期に過ごした神社もお寺も大切な思い出だったのかもしれません。桂昌院様の原体験、原風景ですね。
- 藤村真理先生
- 江戸に出てきてからも、京都や幼少期を懐かしんでいたのかもしれませんね。
- 飯塚住職
- 群馬とは強いつながりがあると言うわけでは無さそうです。先にお話しした通り、桂昌院様とのつながりは24代住職の亮賢僧正が安産祈願としたのがはじまりで、徳川5代将軍につくことをきっかけに寄進や支援いただいていたようです。
- 藤村真理先生
- 東京文京区の護国寺は亮賢さんのために開山されたんですか?
- 飯塚住職
- そうですね。綱吉公が将軍になりまして、桂昌院様が行ったのが上州の地より亮賢僧正を江戸の地にお招きし護国寺の初代住職にあてたんです。その時は、桂昌院様の祈願寺のような私寺で大聖護国寺という名前だったんですよ。大聖護国寺の別当でした。そのうちに徳川家の祈願寺というふうにお寺の性格が変わってきて、元禄の頃、今ある観音堂を建てたようです。名称も護国寺と言われるようになりましたね。
- 飯塚住職
- 上方(京都・大阪)を中心に、文学、美術、学問、演劇など、様々な文化が発展した時代ですね。江戸へも様々な文化が入ってきて、江戸の文化の礎を作っていった時代かもしれません。着物や髪結も元禄の頃に整ったと言う話ですし。
- 藤村真理先生
- 争いの世が終わり、平和がおとずれた時代だからこそ豊かになって文化が発展して行ったんですね。
- 飯塚住職
- 元禄文化が開花したきっかけというのは、様々な要因があるかと思いますが、元禄小判の発行もひとつの要因ですかね。経済がインフレ状態になったという話もありますが、商業活動が活発になり豊かになっていったんじゃないかなと思いますね。神社仏閣への支援は、今でいう公共事業のようなものですし。
- 記者
- ー神社仏閣への支援は、経済効果がすごいですよね。桂昌院さんは、平和な世だけではなく、神社仏閣、祭事の復興をたくさんして、文化発展の時代を築いていった女性だったんですね。
[原稿編集]
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