境内図
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1
御神殿
御神殿
昭和9年に竣功。権現造。鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿
▲ 境内図
2
祭祀殿・資料館
祭祀殿・資料館
2階には神田祭に関する資料を展示。3階には神田明神に伝わる神宝を展示。
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3
鳳凰殿
鳳凰殿
1階 神札授与所・参集所、2階 神職斎館、3階 祭礼装束調度品収納室
▲ 境内図
4
えびす様尊像
えびす様尊像
海の仲間に守られて大海原を渡られる『えびす様』のお姿が造形されています。
▲ 境内図
5
だいこく様尊像
だいこく様尊像
石造りとしては日本一のだいこく像として建立。
▲ 境内図
6
随神門
隨神門
昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立。総檜・入母屋造。
▲ 境内図
7
千社札の碑
千社札の碑
約250名の納札を形どったものが彫られている。
▲ 境内図
8
祭務所、神楽殿
祭務所、神楽殿
▲ 境内図
9
社務所
社務所
昭和9年に竣功。権現造。鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿
▲ 境内図
10
力石
力石
かつて若者達が力試しに用いた大石。
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11
明神会館
明神会館
結婚式(神前式)を東京でお考えなら神田明神の結婚式場「明神会館」へ。婚礼相談室までどうぞ。
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12
銭形平次の碑
銭形平次の碑
有志の作家と出版社が発起人となり、寛永通寶を形どって建立。
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13
国学発祥の碑
国学発祥の碑
荷田春満が初めて国学の教場を開いたのが、当神社社家芝崎邸内であった。
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14
千社札納札所
千社札納札所
境内の美観を保ちながら千社札愛好家の意志を尊重するために設置。
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15
角田竹冷の碑
角田竹冷の碑
角田竹冷は俳句革新運動を展開し、旧神田区の初代区会議長・衆議院議員をつとめた。
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16
祖霊社
祖霊社
神田明神を尊崇なさった氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。
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17
合祀殿
合祀殿
平成24年に旧・籠祖神社社地に建立。
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18
御神裏参道殿
裏参道
▲ 境内図
19
水野年方顕彰碑
水野年方顕彰碑
江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師。
▲ 境内図
20
末廣稲荷神社
末廣稲荷神社
ご祭神 - 宇迦之御魂神 祭礼日 - 3月午の日
▲ 境内図
21
三宿・金刀比羅神社
三宿・金刀比羅神社
三宿神社ご祭神 - 宇迦之御魂神 祭礼日 - 10月初旬 金刀比羅神社ご祭神 - 大物主神、金山彦命、天御中主命 祭礼日 - 10月10日
▲ 境内図
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鳳輦神輿奉安殿
鳳輦神輿奉安殿
神田祭神幸祭に出される神社鳳輦・神輿2基が大切に保管されている。
▲ 境内図
23
浦安稲荷神社
浦安稲荷神社
ご祭神 - 宇迦之御魂神 祭礼日 - 3月午の日
▲ 境内図
24
江戸神社
江戸神社
ご祭神 - 建速須佐之男命 祭礼日 - 5月14日
▲ 境内図
25
大伝馬町八雲神社
大伝馬町八雲神社
ご祭神 - 建速須佐之男命 祭礼日 - 6月5日
▲ 境内図
26
小舟町八雲神社
小舟町八雲神社
ご祭神 - 建速須佐之男命 祭礼日 - 6月6日
▲ 境内図
27
水神社(魚河岸水神社)
水神社(魚河岸水神社)
ご祭神 - 弥都波能売命 祭礼日 - 5月5日
▲ 境内図
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鉄製天水桶
鉄製天水桶
昭和9年に竣功。権現造。鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿
▲ 境内図
29
獅子山
獅子山
江戸時代に関東三大獅子の一つとして奉献。
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小唄塚・小唄作詞塚
小唄塚・小唄作詞塚
昭和の小唄作曲に大きな功績を残した吉田草紙庵を顕彰するために建立。
▲ 境内図
31
狛犬
狛犬
関東大震災後に復興された現社殿とともに建立された、正面を向いている非常に珍しい狛犬。
▲ 境内図
32
男坂
男坂
天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献。
▲ 境内図
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氏子神輿庫
氏子神輿庫
氏子中の神輿約50基が納められている。
▲ 境内図
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三の宮奉安庫 (鳳輦庫)
三の宮奉安庫 (鳳輦庫)
▲ 境内図
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明治天皇御臨幸記念碑
明治天皇御臨幸記念碑
明治7年(1874)9月19日、明治天皇が神田明神に御親拝になられた。
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御百度石
御百度石
二十度もお参りする毎に、百度石に五色紙垂を一色づつお供えすれば五色で百度参りするもの。
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阿部筲人(しょうじん)の句碑
阿部筲人(しょうじん)の句碑
碑の表面に阿部筲人の俳句「山茶花の散るや己の影の中」が刻まれている。
▲ 境内図
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千代田区指定有形文化財 神田の家
千代田区指定有形文化財 神田の家
遠藤家の邸宅や数々の所蔵品は、その材料、仕様に至るまで江戸の職人の技が極められています。
詳細
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39
文化交流館建立中
文化交流館建立中
当社は天平二年(七三〇)に創建され、来る平成四十一年に創建千三百年を迎えます。それを祝すため奉賛会を結成し、記念事業を行います。
詳細
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40
明神男坂 大公孫樹(おおいちょう)
明神男坂 大公孫樹(おおいちょう)
この公孫樹(いちょう)は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木である。
▲ 境内図

御社殿(国登録有形文化財)

御社殿
昭和9年造営当時の社殿
昭和9年造営当時の社殿
江戸時代建立の社殿
江戸時代建立の社殿

昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られており、昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。

伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家により設計された。小屋組を鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が施されている。

拝殿の手前を土間にし、その先を畳敷きの床にすることによって、参拝者が靴を履いたまま立って拝礼できるとともに、神職が床において祭式を行うこともできるという、現代社会に対応した構造が、昭和初期の段階で採り入れられている。 昭和20年の東京大空襲にも耐え抜いた。

平成元年に、参拝者の増加に伴い、本殿右脇にエアコン完備の「奥御殿」を造営。さらに、平成の御造替事業(平成6年〜11年)により、全面的に塗替・修復が行われ美しくよみがえった。

江戸開府四〇〇年記念の年・平成15年9月、国登録有形文化財に登録。

ちなみに、現社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵の御紋が見える。

祭祀殿・資料館

祭祀殿・資料館

平成10年オープン。2階、3階展示室からなり、2階には神田祭のジオラマをはじめ、神田祭に関する資料を多く展示。また、3階には神田明神に伝わる神宝を展示。各階に江戸時代の錦絵も展示している。

開館日:土日、祝祭日の午前10時〜午後4時
拝観料:大人300円、学生・子供200円。

1階には年祭を執り行うための祭祀殿がある。

鳳凰殿

鳳凰殿

神札授与所と参集所をあわせ持つ鳳凰殿がついに完成いたしました。お体の不自由な方でも、安心して利用していただけるスペースをご用意しております。この建物は、第2次境内整備事業の一環として建立しました。鉄骨造三階建て、朱塗、入母屋、正面唐破風、銅板一文字葺。延床面積は355.93㎡(107.84坪)。

1階 神札授与所、休憩所、参拝者控え室
2階 神職斎館
3階 祭礼装束調度品収納室

えびす様尊像

えびす様尊像

神田明神境内に新たに建立された鳳凰殿のとなりに、当社二の宮のご祭神『えびす様』のご尊像が建立されました。えびす様は正式のお名前を少彦名命(すくなひこなのみこと)と申しあげ、神話に木の実を舟にして海の彼方にある常世から来訪された小さな神様と伝えられています。また『だいこく様』と力を合わせ日本の国作りを行われ、病人に医薬の道を教え、酒造りなど豊かな知恵を人々に授けられた福の神でもあります。
今回建立されたご尊像は、海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡られる『えびす様』のお姿が造形されています。
東京芸術大学学長・宮田亮平教授によって、鍛金工芸の優れた技術で美しく完成いたしました。

神田明神の二の宮・少彦名命 制作にあたって
東京藝術大学学長 宮田亮平

少彦名命「えびす様」のお話をいただきました時、大変うれしくもあり、又、どの様に表現すればよいのか、考えあぐねてしまいました。皆様がどなたもご存じの七福神の中のえびす様は、商売繁昌の神様として有名であり、大きな体に烏帽子をかぶり、釣り竿、そして立派な鯛を小脇に抱えているお姿です。そのイメージの作品ならば多くの場所にあります。折角作るのなら、何か違った神田明神以外どこにも無いものであって、しかも心安らぐ老若男女の多くの方々から愛されるえびす様を制作したいと考えました。神田明神にまいり大鳥居宮司様よりお話しをお伺いいたしておりました所、なんとえびす様は、海のかなたから、小さな木の実の殻の舟に乗って来臨され、小さいお姿ながら大きなだいこく様(一の宮大己貴命)と力を合わせ、この日本という国をお作りになったため「国土開発・事業繁栄」として仰がれ、又、医薬を全国各地に広めたところから「病気平癒・健康増進」の神様であるとのお話でした。私の日頃からのコンセプトである『海』とぴったり合ったお話しでしたので、心が騒ぎました。現在一の宮として皆様に慕われている大きなだいこく様の横で、一緒に国づくりをする為においで下さったえびす様という空間を演出することを心がけました。その様なお姿が、御参拝の皆様の心癒される場になっていただければと念じながら、制作いたしました。

だいこく様尊像

だいこく様尊像

昭和51年完成。高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として建立された。

隨神門

隨神門

昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾っている。また二層目に金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公に由来する。その後、平成10年の『平成の御造替事業』によって、鮮やかに塗替えられた。外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置。この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用している。一木造。長崎平和祈念像制作者として有名な
北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修による。松下幸之助氏奉納。内側には、神馬一対を配している。氏子総代・遠藤達藏氏により奉献。

千社札の碑

千社札の碑

200枚以上もの「千社札」が刻み込まれた碑で、平成12年に建立。千社札は、江戸時代中期より流行した「千社詣」からはじまったと言われている。参拝者が、自分の名前・屋号などを記した紙札を社寺に貼ることで御利益が得られるとされた。はじめは手書きであった。その後、浮世絵の技術が発展して木版多色刷りの札がつくられるようになると、デザイン性の高い彩り豊かな千社札が多く見られるようになった。平成12年に建立。

祭務所、神楽殿

祭務所、神楽殿

社務所

社務所

力石(大盤石)

力石(大盤石)

力石とは、若者たちが「力くらべ」に使った2〜30貫くらいの石のことで全国各地の神社仏閣などにあった。神田明神の力石は直径80cm・短径67cm で、文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものである。江戸東京の若者たちの生活・娯楽を垣間見れる資料。平成3年4月1日、文化財に指定。

明神会館

明神会館

結婚式(神前式)を東京でお考えなら神田明神の結婚式場「明神会館」へ。婚礼相談室までどうぞ。
平日、土日 午前10時〜午後6時。休館日:毎週火曜日。見学は予約なしでもお承っております。仮予約受付中。
【詳細はこちら】明神会館

銭形平次の碑

銭形平次の碑

野村胡堂(1882〜1963)の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立した。胡堂の『捕物控』は昭和6年『文藝春秋オール読物』に第1作「金色の処女」が発表されて以来、27年間で383編にもおよんだ。神田明神から明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・がらっ八の小さな碑もある。

国学発祥の碑

国学発祥の碑

国学は、荷田春満(1669〜1736)により江戸において始められた学問である。春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそかに情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。また春満の弟子・賀茂真淵(1697〜1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。
碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に建立された。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏による。

【碑文】
(表面)
 國學發祥之地      今 東光撰文
荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仏道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ

(裏面)  題字 伏見稲荷大社宮司 守屋光春 書
      協賛 國學院大學
         伏見稲荷大社
         靖國神社
         湯島神社
         龜戸天神社
         神田神社
         羽倉 信也
      発起 羽倉 敬尚
         池田 良八
         莵田 俊彦
         大鳥居 吾朗
         今永 利男
   昭和五十三年十二月吉日

千社札納札所

千社札納札所

境内の美観を保ちながら千社札愛好家の意志を尊重するために、神門回廊一部に設置されており、社務所に届け出れば誰でも納札することが出来る。

角田竹冷の句碑

千社札納札所

角田竹冷大正9年(1920)頃に建立された碑で、表面に、

白うをや はばかりながら 江戸の水

という俳人・角田竹冷の俳句が刻まれている。

意味は、
白魚もとれる神田川の水は、恐れおおくも、その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水である。

角田竹冷(1858〜1919)は、本名を真平といい、代言人(今の弁護士)をつとめるかたわら、俳人としても名の知れた人物。尾崎紅葉らとともに秋声会を結成し正岡子規の日本派と並んで俳句革新運動を展開。また、旧神田区(千代田区の一部)の初代区会議長・衆議院議員をつとめるなど政治家としてもその手腕を発揮した。

祖霊社

祖霊社

神田明神を尊崇なさった氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。平成16年に創建。

合祀殿

合祀殿

平成24年に旧・籠祖神社社地に建立。籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲く耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀している。

裏参道

裏参道

水野年方顕彰碑
<千代田区指定有形文化財(歴史資料)>

水野年方顕彰碑 <千代田区指定有形文化財(歴史資料)>

大正12年4月に41歳の若さでこの世を去った浮世絵系の日本画家・水野年方を顕彰するために、大正15年(1926)に弟子の鏑木清方・池田輝方らが発起人となり境内に建立したもの。関厳二郎撰書。材質は石、寸法は高さ378.4cm、六角形の一辺40.7cm。平成13年4月1日、文化財に指定。
水野年方(1866~1908)は、明治時代の浮世絵系日本画家・風俗画家。慶応2年(1866)正月2日、江戸・神田紺屋町の左官職の家に生まれ、後に水野家の養子となる。通称、粂次郎。号、応斎・蕉雪。月岡芳年に浮世絵を学び、その傍らで山田柳塘・柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭などについて南画を学んだ。美人画や歴史風俗画を得意とし、歌川国芳・月岡芳年と続く歌川玄治店派を継ぐ。また「やまと新聞」「新小説」「都の花」などの挿絵を描き、明治の新聞挿絵に一生面を開いた。岡倉天心に認められ日本青年絵画協会に入り、明治31年(1898)には天心が創立した日本美術院に審査員として招かれた。門下からは、鏑木清方や池田輝方ら俊才を輩出した。明治41年4月7日、43歳の若さで没した。錦絵の代表作に『三十六佳選』や『今様美人』シリーズなどがある。

〜碑文〜
(表面)
水野年方君は本姓野中氏通称粂次郎慶応二年一月江戸神田に生まる。
月岡芳年に学び後諸派を研究し 率先浮世絵の向上に努力せり 展覧会審査員に選ばれ其画筆精微気品も高し 忠信参館図は恭くも御府に入れり 明治四十一年四月七日没 年僅に四十三年生情義に厚く門下秀才に富む 茲に胥謀りて塔を建て永く其徳を紀す 嗚呼君芸に游びて華を摭ひ根を培い筆精に韻高し 稟命永からざりしかど 芬芳は窮りなからむ
  大正十二年四月             同庚の友 関 巌二郎撰并書

(裏面)
小山光方 竹田敬方 山口米庵 鏑木清方 山本宣方 笠原常方
田島定方 大石雅方 須藤家方 草野栄方 中井智方 西村京方
山本方堂 吉本月荘 池田輝方 大野静方 荒井寛方 水野秀方
池田蕉園 源山隆方 椎塚応義 大江蕉玉 歌川花菜 古山勝方
古荘信方 中山秋瀧 佐藤和方 池田秋方 芳野尚方 小倉高嘉
田中崇籏 小林きん 山脇義久 平田月方 木村貞治郎
藤浦富太郎 秋山武右衛門 新富

末廣稲荷神社

末廣稲荷神社

ご祭神 - 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

宇迦之御魂神、級長戸辺之命、級長津彦之命を祀っていた旧社で元和2年の頃の社で極めて古く、昔から庶民信仰が強かった。
現社殿は昭和41年に再建された。
祭礼日 - 3月午の日

三宿・金刀比羅神社

三宿・金刀比羅神社

末社 三宿稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ
創建年は不詳。江戸時代より神田三河町二丁目(他に皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併され、昭和10年に司町一丁目と改称。さらに昭和41年より内神田1,2丁目の一部に編入される)の守護神として信仰されていた。その後、当社12代神主・芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年10月7日に再建され、金刀羅大神と共に御鎮座された。

末社 金刀比羅神社
祭神 大物主命(おおものぬしのかみ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇泊白川家の配下となり、祭祀が斎行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められた。かついては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めた。
昭和41年10月7日、両国より神田明神境内に遷座し、三宿稲荷神社とともに御鎮座された。

水盤
千代田区指定有形民俗文化財(平成14年4月1日指定)
この水盤は、左右側面の銘文によると、文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納された。さらに背面の銘文に、安政3年(1856)6月に神田、日本橋、京橋、下谷、本郷界隈に住む45名の人々により再建されたという。『諸問屋名前帳』(国会図書館所蔵)を見ると、これらの人物の中には川辺炭薪問屋仲間、炭薪仲買、人宿、六組飛脚問屋などの職を持つ町人たちが名を連ねている。
再建にあたり、書家・平林惇一が揮毫しているが、この人物は江戸日本橋室町で代々書屋を営んでいた平林家と関わりがある人物と考えられている。材質は石、寸法は高さ61cm、横幅136cm、奥行59.5cm。

鳳輦神輿奉安殿

鳳輦神輿奉安殿
一の宮鳳輦
一の宮鳳輦
二の宮神輿
二の宮神輿
神田明神大神輿
神田明神大神輿

神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。

浦安稲荷神社

浦安稲荷神社

ご祭神 - 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもので、天保14年に遷座された。
祭礼日 - 3月午の日

江戸神社

江戸神社
ご祭神 - 建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
神田明神大神輿

大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されている。慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移った。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称された。
慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われた。
明治元年(1868)に神社名を「須賀神社」に改めた。同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座した。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めた。
平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平・作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っている。今も江戸神社奉賛会の人々により崇敬されている。
2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入している。

大伝馬町八雲神社

三宿・金刀比羅神社

大伝馬町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財(平成16年4月1日指定)
この天水桶は、地上からの高さが1,4メートルほどになる一対のものである。寸法は高さ76,7cm、口縁部の周囲287,3cm、口縁部の内径82,5cm。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製である。天水桶の口縁には「巴」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されている。
銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である大田近江掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。
大伝馬町八雲神社の運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、後に太物問屋仲間が賄うようになります。そのため天水桶には大伝馬町の名と共に太物問屋仲間の名前が刻まれている。

小舟町八雲神社

三宿・金刀比羅神社

小舟町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財(平成17年4月1日指定)
この天水桶は、地上の高さ1,4メートルほどになる一対のもの。なお、四角形の基壇と台座は石製。
銘文によれば、天水桶の奉納者は、江戸の魚問屋中に属する商人・遠州屋新兵衛他十名で、塩干肴や乾物などの流通を担った商人のことで、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べて商いをしていた。
鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師・大田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜八)。釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640)に出府している。当初は芝に居を構えていたが、万治元年(1658)に大島村に転居した。梵鐘、天水桶、茶釜、鍋、釜などを製造していたが、明治維新後に廃業。
鳥居を入って左側の天水桶は、安政4年(1857)に再建されたもので、右側の銘文をもとに鋳造したもの。

魚河岸水神社

魚河岸水神社

末社 魚河岸水神社
祭神 水神、弥都波能売命(みつはのめのみこと)
日本橋に魚市場があったころに徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神・大市場交易神として神田明神境内に祀られたが、明治6年(1873)9月に当時の魚市場内(日本橋長浜町2丁目4番地、現在の日本橋室町1丁目、本町1丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社の合殿に祀られた。明治24年(1891)に社名を魚河岸水神社と改め、更に明治34年(1901)9月、再び神田明神境内に遷座し末社として祀られ、盛大に水神祭が執り行われた。
市場が日本橋より築地に移り築地魚市場(東京都中央卸売市場築地市場)に移転した後、市場内に当社の遙拝所が建立され、現在も築地魚河岸会の方々を中心に神事が執り行われている。

「神田日本橋桶工水溜講」の石碑

なお社殿の周辺には、神田日本橋の人々により大正13年(1924)12月に建立された「神田日本橋桶工水溜講」の石碑が建っている。石碑裏によると人名は以下の通り。市原伊助(神田表神保町)、伊藤金太郎(日本橋小伝馬町一)、大久保傳五郎(同本小田原町)、金子銀次郎(神田今川橋)、糟谷重太郎(同雉子町)、鍛冶 幸(同東松下町)、田口多七(同皆川町)、谷口善四郎(同豊島町)、辰尾清太郎(小川町一)、玉井鍬藏(同美倉町)、鶴見岩次郎(日本橋小田原町)、中村末吉(神田皆川町)、安田彌助(日本橋大伝馬町一)、桶長(神田錦町一)、桶宗(神田猿楽町)、桶金(同通新石町)、桶福(同猿楽町)、桶彦(日本橋魚市場)、小林寅吉(神田新銀町)、小林常吉(同連雀町)、八代定吉(同鎌倉町)、本所政吉(同東龍閑町)、木村菊松(日本橋西河岸)、木村七兵衛(神田明神坂下)、三五幸藏(同新銀町)、三浦兼吉(同中猿楽町)、平本吉五郎(同下白壁町)、杉田勘七(同錦町二)。

魚河岸水神社・加茂能人形山車

魚河岸水神社・加茂能人形山車
中央区民有形民俗文化財
築地魚河岸会所有。昭和30年作。3代目原舟月(1826〜1899)により製作された魚河岸水神社加茂能人形山車巡行模型(中央区民有形文化財・工芸品)を元に復元された江戸型の山車。能の演目「加茂」に登場する別雷神の人形が飾られている。二層目には加茂の競馬と楓が刺繍された緋羅紗の銅幕、最下部には二葉葵の模様の幕が張られている。2年に一度5月に行われる神田祭期間中、神田明神境内に飾り付けられる。8メートルもの大きくそして豪華絢爛な姿が多くの人々の目を楽しませている。

鉄製天水桶 <千代田区指定有形民俗文化財>

鉄製天水桶

鉄製天水桶
千代田区指定有形民俗文化財(平成11年4月1日指定)
神田神社御社殿前にある鉄製の手水桶は、その銘文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石」と「筋違外」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかる。また他に「下り・地廻酒屋中」との銘文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起される。
諸問屋の株仲間は、享保時代(1716〜36)から特権化しはじめた商人が、田沼時代以降幕府に公認されてきたもの。この株仲間は、物価騰貴の一因として見なされ、天保12年(1841)に解散が命じられた。しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間はわずか10年の嘉永4年(1851)に新たな商人層を加えて再興された。なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳」には、銘文にある世話人や願主などの名前を見いだすことができる。
天水桶の奉納は株仲間の解散期間中のため、その銘文は「下り・地廻酒屋中」とされている。しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、奉納に関わる商家は再興後の株仲間として組織されていることから見ても、恐らくは「問屋中」などと表記されたであろう。
他の銘文の内、江山関根為宝(こうざんせきねいほう)は、幕末の書家であり、天保12年前後の著作がいくつか残されている。書道ばかりではなく歌をも詠み、音韻の学にも通じていたとされている。また二人の鋳物師の名前が見られますが、おそらくは神田の堀口武兵衛が仕事を請負って、川口の永瀬源七に鋳造させたものと思われる。寸法は高さ99cm、横幅118,2cm、奥行103,7cm、口縁部厚さ3cm。

獅子山 <千代田区指定有形民俗文化財>

獅子山

獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられ、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名であった。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られている。

石獅子 夫婦2頭
千代田区指定有形民俗文化財(平成3年4月1日指定)
本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
斎藤月岑・編『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。
かつては神社境内参道の両脇に岩組の石獅子として据えられていたが、関東大震災により崩壊し子獅子を紛失、親獅子2頭を保存していたが、今上天皇陛下ご即位を奉祝し子獅子を新調し新たに「獅子山」として建立された。

小唄塚・小唄作詞塚

三宿・金刀比羅神社

昭和31年(1956)、小唄作曲家・吉田草紙庵(1875〜1946)を追悼するため、堀越三升(10代目市川団十郎)・英十三(はなぶさじゅうざ)らによって建立された。草紙庵は、左官職のかたわら長唄を初代清元に、三味線を2代梅吉に習い、さらに江戸小唄の作曲を手がけた。また「歌舞伎小唄」を創作。この碑のほか、小唄に関係するものとして、小唄作詞塚、小唄作詞家・小唄作曲家追悼碑がある。

狛犬

三宿・金刀比羅神社

狛犬 1対
昭和8年5月、氏子有志により奉献された。
狛犬は、神社の守護役あるいは神さまの使いとして、邪気を払う役割を持つ存在。向って左側の一角獣を「狛犬」、右側を「獅子」と言いますが、両方あわせて「狛犬」というのが一般的である。
当社の狛犬は、正面を向いているという非常に珍しいもので、造形については、動物彫刻を得意とした池田勇八が原型を作成しているので、よりリアルで精悍な表情をしている。

男坂

男坂

天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献した。眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれた。又、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれる。

氏子神輿庫

氏子神輿庫

氏子中の神輿約50基が納められている。

三の宮奉安庫 (鳳輦庫)

三の宮奉安庫(鳳輦庫)

明治天皇御臨幸記念碑

明治天皇御臨幸記念碑

明治7年(1874)9月19日、明治天皇が神田明神に御親拝になられた。当時の記録によると、明治天皇は祠官本居豊頴の案内により本殿前の大床において御立礼で御拝礼遊ばされたという。東京の神社で明治天皇が親しく御参拝なさったのは靖國神社と神田明神のみであった。明治7年という年は、二の宮に少彦名命が迎えられ平将門霊神が本殿から摂社へ遷座されるなど様々なことが起こった年で、非常に慌しい中での明治天皇御親拝であった。碑は紀元2600年奉祝として昭和15年(1940)に建立された。

御百度石

御百度石

二十度もお参りする毎に、百度石に五色紙垂を一色づつお供えすれば五色で百度参りするもの。だいこく様百度参りは2キロ弱、だいこく様・えびす様百度参りは4キロ強、御本社百度参りは8キロ強の距離となります。参拝と健康増進を兼ねてお参り下さい。

五色とは古代中国に成立した「五行説」に由来します。五行説は、木・火・土・金・水の五つの要素により万物が組成され、自然現象の全てを解釈し説明するものです。天地万物を組成する五つの要素を神捧げ、感謝と祈りを籠めてお参り下さい。

阿部筲人(しょうじん)の句碑

阿部筲人(しょうじん)の句碑

碑の表面に筲人の俳句「山茶花の散るや己の影の中」が刻まれている。しょう人 (1900〜1968)は、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人物。その著『俳句―四合目からの出発』は、俳句の入門書として多くの俳句愛好者に読まれている。昭和47年11月12日、好日俳句会により建立。

千代田区指定有形文化財 神田の家

文化交流館建立中

屋上庭園

開園時間 午前10時〜午後4時 ※季節・時期により開園時間が異なる場合がございます。あらかじめご了承ください

世界の経済発展とともに地球の緑は失われつつあります。
その結果、地球温暖化が進み、今や世界的規模で人類の存続さえ脅かしかねない状況に直面しつつあります。 古代より日本人は自然と共生し、自然の中に神々を見出し崇め、そこに「鎮守の森」が形成されました。 しかし当社の周辺においても、たび重なる開発により緑が急速に失われていっております。
そこでこの度「鎮守の森」の環境を整備すべく境内緑化事業を行います。 その第一歩として境内地西側に位置する立体駐車場を縮小し回遊式・屋上緑園を造成いたします。 限られた境内地において、人々が少しでも癒される「憩いの庭」として皆様に四季を感じていただきたいと切に願います。

境内緑化事業の第一歩である当事業にご協賛いただき、次世代の子どもたちに緑の大切さと鎮守の森の素晴らしさを伝えていきたく存じます。 緑潤う、安らぎのある境内の実現に、是非ともご協賛いただけますよう、よろしくお願いいたします。

明神男坂 大公孫樹(おおいちょう)

明神男坂 大公孫樹(おおいちょう)

この公孫樹(いちょう)は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木である。
大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹であった。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和20年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲ったが、昭和9年建立の鉄骨鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造を持つ神社建築であったため焼失を免れた(国登録文化財)。その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。
この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。
江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます。
災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。