平成21年度神田祭特設サイト|江戸の伝統・日本三大祭の粋
神幸祭 附け祭の巡行路マップがダウンロードできます(PDF形式)。
【マップリスト】
◇江戸芸 かっぽれ
◇大江山凱陣 大鯰と要石
◇大天狗と像
◇相馬野馬追騎馬武者
◇神幸祭 巡行路
◇神輿宮入・連合情報
◇宮入神輿・山車一覧
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当日の日程や動画中継などがご覧になれます。
明治時代になり、東京は実質的に日本の首都となった。西欧・欧米諸国と渡り合っていくためには「文明開化」が絶対の条件であった。西欧諸国にとって「野蛮」と見られたものは、全て排除すべきという風潮が政府に見られ、多くの法令により庶民たちを縛りつけた。明治以降、神田祭の山車は明治17年に46本、明治20年に40本と、江戸時代の36番40本前後と同じぐらい盛大な祭礼が行われた時もあったが、明治22年を境に不景気と電線架線などの影響から、山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなった。その後、神田祭は祭礼行列が神輿のみの渡御へと変化していった。また遡って明治5年より錦蓋翳4本・五色旗などの近代の神社制度に則った装飾が加えられ、明治9年より馬車が導入されるなど近代的な変化を遂げていった。さらに巡行路も氏子区域全ての神輿渡御へと変更され、非常に細かな路地まで渡御が行われるようになり、それにより日程が2日間から3日間、さらに4日間へと増加していった。明治25年の神田祭より、台風・疫病流行の時期を避けるため、祭月を9月から5月に変更、以降、今日まで5月に斎行されている。
大正時代、山車は姿を消し、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと名称も変更された。渡御祭は、数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭で、長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われた。大正8年、2基の神輿を大鳳輦1基に改めた。残念ながら、この鳳輦は大正12年の関東大震災により焼失してしまい、たった1度の渡御しかしていない。関東大震災後、幾度か渡御祭は延期されたが、昭和元年に鳳輦が新調され神田祭が復活、同9年には二の宮神輿も復興された。昭和17年が戦前最後の神田祭で、この時、鳳輦が牛が曳く形式へと変化した。
※雨天等、当日の状況により時間やコースが変更となる場合がございます。あらかじめご了承ください。