平成21年度神田祭特設サイト|江戸の伝統・日本三大祭の粋
神幸祭 附け祭の巡行路マップがダウンロードできます(PDF形式)。
【マップリスト】
◇江戸芸 かっぽれ
◇大江山凱陣 大鯰と要石
◇大天狗と像
◇相馬野馬追騎馬武者
◇神幸祭 巡行路
◇神輿宮入・連合情報
◇宮入神輿・山車一覧
【マップリスト】
◇江戸芸 かっぽれ
◇大江山凱陣 大鯰と要石
◇大天狗と像
◇相馬野馬追騎馬武者
◇神幸祭 巡行路
◇神輿宮入・連合情報
◇宮入神輿・山車一覧
当日の日程や動画中継などがご覧になれます。
その神田祭の起源は記録文書等がほとんど遺されておらず詳細は不明であるが、大祭化したのは江戸時代前後のことでである。江戸時代の『神田大明神御由緒書』によると、江戸幕府開府以前の慶長5年(1600)に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時、当社に戦勝の祈祷を命じられ、また石田光成との天下分け目の関ヶ原の合戦おいても同じく戦勝の祈祷を命じられた。神社では銘により毎日心を込めて祈祷を行っていたところ、不思議なことに9月15日の神田祭の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たした。それにより家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿・祭器が寄進され、神田祭は徳川家縁起の祭として以後絶やすことなく盛大に執り行うべきことが仰せ付けられた。
9月15日の暁丑の刻(午前2時頃)、江戸の町を埋め尽くす2年に一度の神田祭ははじまる。勢揃いした町々の山車や附祭は湯島聖堂前・桜の馬場を出発。同じころ神輿の行列や諸大名より出された警固役や神馬も大榊を先頭に神社を出て昌平坂を降り、ここで合流し神田祭の行列は完成する。行列は筋違橋御門から江戸城・外廓内へ入り神田の町々を渡り、さらに田安御門より内廓に入った。朝鮮馬場で一時休憩した後、上覧所前を通過する。上覧所では将軍や御台所(将軍の夫人)、大奥女中たちが祭を楽しんだ。そして行列は竹橋御門を経て大手橋と神田明神旧鎮座地にいたり、ここで獅子の狂いと神事が執り行われた。その後、常盤橋御門から江戸城外を出て町々の山車や附祭はここで解散、神輿の行列は日本橋の町々を通り、大伝馬町・小舟町・南伝馬町の御仮屋へ行き神事を執り行い神社へと向かう。神社への帰途、路次には町々が競って提灯を掲げ神輿の帰りを出迎えた。そして、戌ノ刻(午後8時ころ)頃、神社へ帰社し、天下祭・神田祭は終わりを遂げた。
各町より出された華麗な山車が多くの人々の目をひきつけたが、それを凌ぐほどの人気があったのが「附祭(つけまつり)」と言われた出し物であった。附祭とは、曳き物(ひきもの)と呼ばれた巨大なはりぼての人形や様々な流行の衣装を身にまとい流行の音楽を奏でながら行列に参加した踊り子などのことを言い、毎回違う出し物が出されたため多くの見物人を楽しませた。
附祭の代表的なものには「大江山凱陣」「大鯰と要石」「牛若丸奥州下り」「朝鮮人来朝の学び」などがあった。曳き物あり、踊りあり、屋台ありとどこからどこまでを附祭と呼んだのか、なかなか見当がつかず、非常にわかりにくい。しかし少なくとも「何でもあり」でかつ神田祭において「一番人気」の出し物であったことは確かだ。
現代の神田祭でも、様々な附祭を出し話題を呼んでいる。平成19年は、「大江山凱陣」の復活、「大鯰と要石」、「狛犬・獅子」、「サンバ」などが出された。いつの時代も流行を先取りした附祭は人気である。
※雨天等、当日の状況により時間やコースが変更となる場合がございます。あらかじめご了承ください。