平成21年度神田祭特設サイト|江戸の伝統・日本三大祭の粋
神幸祭 附け祭の巡行路マップがダウンロードできます(PDF形式)。
【マップリスト】
◇江戸芸 かっぽれ
◇大江山凱陣 大鯰と要石
◇大天狗と像
◇相馬野馬追騎馬武者
◇神幸祭 巡行路
◇神輿宮入・連合情報
◇宮入神輿・山車一覧
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当日の日程や動画中継などがご覧になれます。
氏子各町会の神酒所には、揃いの半纏・浴衣に身を拵えた氏子の皆さんが参集、参列。神職のご奉仕による厳粛な神事のもと、明神様の御神霊が、各町会の神輿にお遷りになります。
※写真は過去の神田祭の画像を使用しております。
◆「御仮屋」(おかりや)とは
神輿が一時とどまる場所のことで、御旅所(おたびしょ)や行宮(あんぐう)などとも言う。神輿が渡御した際に立ち寄り神事を行ういわゆる中継地を意味し、祭の時に臨時に建てられる建造物であった。
◆「神酒所」(みきしょ)とは
神々に神酒をはじめとする神饌をお供えする場所で御仮屋と一緒に建てられることが多い。
◆「御仮屋」「神酒所」と神輿渡御の日数の移り変わり
江戸時代の神田祭は9月15日に行なわれていましたが、天保12年に南伝馬町に御旅所が作られて以後、幕末期には大伝馬町・小舟町にも一時ではあるが御旅所が作られた。さらに明治時代に入ると神田祭の形態は一変し、特に神輿が渡御する日数が増えた。 明治9年より2日間になり、明治13年に3日間、そして17年も3日間の渡御が行われた。これは神輿渡御ルートの変化によるもので、江戸時代の場合、神輿は氏子町々を大まかに巡行したが、明治に入ると年々巡行路が詳細になっていった。今まで略されていた細かい路地まで神輿が渡御するようになった。そのため全ての氏子町を巡行するために日数を要するようになり、御仮屋が必要となった。 さらに大正、昭和になると、さらに渡御の日数が増え、長い時には1週間も行われた。そのため、御仮屋が必要となり小川町や日本橋にも御仮屋が作られた。
神輿が一時とどまる場所のことで、御旅所(おたびしょ)や行宮(あんぐう)などとも言う。神輿が渡御した際に立ち寄り神事を行ういわゆる中継地を意味し、祭の時に臨時に建てられる建造物であった。
◆「神酒所」(みきしょ)とは
神々に神酒をはじめとする神饌をお供えする場所で御仮屋と一緒に建てられることが多い。
◆「御仮屋」「神酒所」と神輿渡御の日数の移り変わり
江戸時代の神田祭は9月15日に行なわれていましたが、天保12年に南伝馬町に御旅所が作られて以後、幕末期には大伝馬町・小舟町にも一時ではあるが御旅所が作られた。さらに明治時代に入ると神田祭の形態は一変し、特に神輿が渡御する日数が増えた。 明治9年より2日間になり、明治13年に3日間、そして17年も3日間の渡御が行われた。これは神輿渡御ルートの変化によるもので、江戸時代の場合、神輿は氏子町々を大まかに巡行したが、明治に入ると年々巡行路が詳細になっていった。今まで略されていた細かい路地まで神輿が渡御するようになった。そのため全ての氏子町を巡行するために日数を要するようになり、御仮屋が必要となった。 さらに大正、昭和になると、さらに渡御の日数が増え、長い時には1週間も行われた。そのため、御仮屋が必要となり小川町や日本橋にも御仮屋が作られた。
明治45年の両国御仮屋
※雨天等、当日の状況により時間やコースが変更となる場合がございます。あらかじめご了承ください。