平成21年度神田祭特設サイト|江戸の伝統・日本三大祭の粋
神幸祭 附け祭の巡行路マップがダウンロードできます(PDF形式)。
【マップリスト】
◇江戸芸 かっぽれ
◇大江山凱陣 大鯰と要石
◇大天狗と像
◇相馬野馬追騎馬武者
◇神幸祭 巡行路
◇神輿宮入・連合情報
◇宮入神輿・山車一覧
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当日の日程や動画中継などがご覧になれます。
神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われている。また、延宝年中まで毎年斎行されていたが、山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年で斎行することになり、以後、今日まで2年に一度斎行されることが恒例となった。
それは次の3点からそう呼ばれるようになった。
・江戸城内に祭礼行列が入ることができたこと
神田祭の祭礼行列が初めて江戸城内に入ったのは元禄元(一六八八)年のことと江戸時代に書かれた書物に記録されている。この時、五代将軍綱吉の生母・桂昌院が見物した。
・江戸城内で徳川将軍が神田祭を見物することがあったこと
徳川将軍の祭礼見物を「上覧」と言った。神田祭の上覧は幕府が編纂した徳川家の記録「徳川実紀」によると、宝永三年(一七〇六)に初めて記事が見られる。おそらくそれ以前から上覧がたびたびあったようである。・江戸幕府が神田祭の祭礼費用を負担したこと
元和三年(一六一七)、江戸幕府より初めて神輿をはじめ祭礼道具が新調された。それ以後、神田祭の神輿や祭具の新調・修復は、原則的に江戸幕府がその費用を負担したことが、古文書などに見られる。但し、山車や附祭は各氏子町の費用負担・管理であった。また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして『日本三大祭り』『江戸三大祭り』の中に数えられた。
改めて江戸時代の神田祭は9月15日に行なわれ、神輿行列をはじめ氏子町より出された36番40前後の山車、仮装行列や造物など毎回趣向を変えた出し物であった附祭(つけまつり)、太神楽や独楽回しなどの曲芸師による御雇祭(おやといまつり)、氏子の諸大名より出された警固など江戸を埋め尽くさんばかりの祭礼行列が江戸城内に入り徳川将軍や大奥、諸大名を楽しませた。また町年寄や町名主といった町役人をはじめとする町々の人々はもちろんのこと、町奉行や寺社奉行、目付、与力・同心などが総動員され、まさに江戸をあげての大祭礼であった。
※雨天等、当日の状況により時間やコースが変更となる場合がございます。あらかじめご了承ください。