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 「天下祭」として知られる神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われている。また、延宝年中まで毎年斎行されていたが、山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年で斎行することになり、以後今日まで2年に一度斎行されることが恒例となった。江戸幕府の庇護を受け、江戸城内に祭礼行列が練りこみ、将軍・御台所の上覧があったことなどから、江戸の庶民たちからいつからか「天下祭」と称されるようになった。また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられた。



 明治に入り山車は大幅に減少したが、明治17年に46本、明治20年に40本と、江戸時代の36本よりも多く出され盛大な祭礼が行われた時もあった。しかし明治22年を境に不景気と電線架線などの影響から、山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなった。明治25年の神田祭より、台風・疫病流行の時期を避けるため、祭月を9月から5月に変更、以降、今日まで5月に斎行されている。

 大正時代に入ると山車が出されることはほとんどなくなり、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと変遷していった。渡御祭は、数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭で、長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われた。大正8年、2基の神輿を鳳輦1基に改めた。残念ながら、この鳳輦は大正12年の関東大震災により焼失してしまい、たった1度の渡御しかしていない。関東大震災後、幾度か渡御祭は延期されたが、昭和5年に復活、渡御祭の行列では一の宮仮鳳輦(御羽車)と二の宮神輿が渡御した。


 戦後、祭の名称を渡御祭から神幸祭に変更し昭和27年に初の神幸祭が斎行された。この時出されたのは、一の宮の鳳輦のみで牛が曳く形式であった。また、この祭で氏子町会より町神輿の連合宮入が初めて斎行された。昭和40年代になると都心部における自動車などの交通事情の影響のため、5月中旬に行っていた神幸祭を祝日の5月2、3日に改められた。さらに神幸祭の日数も3日間より2日間、そして現在は1日となっている。昭和50年、三越より奉納された二の宮の神輿が行列に加わった。さらに昭和59年にご祭神に正式復座された平将門命の三の宮鳳輦が新調され、昭和62年より行列に加わった。

 平成に入り、諌鼓鶏の山車の復活、相馬野馬追騎馬武者行列の特別参加、町田町火消行列、将門武者行列、一本柱万度型山車の特別参加、船渡御の復活やKIXプロジェクト、インターネットによる神幸祭の映像配信など様々な神賑行事を行い今日にいたっている。また本祭にあたらない蔭祭の年にも、平成16年より当社に奉安する大神輿の渡御が恒例化し、賑やかに行われた。



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